■山形県



今のように陸上交通機関が発達する以前、荷物を運ぶ手段は船だった。江戸時代、最上義光らにより航路が開かれた最上川は、たちまち主要な輸送路となる。一方で、村山盆地の最上川流域では、気候が紅花の栽培に適したことから、盛んに生産された。元禄の頃には、盆地内の3分の1が紅花畑だったともいわれる。

 

谷地のおひな様は年中見ることができる。

 

この紅花は最上川を酒田まで下り、西回り航路で大阪・京都へ運ばれた。行きの船には紅花のほか、米・大豆・青芋・煙草などが積まれ、帰りの船には雛人形や仏像、茶、古着などが積まれてきた。
河北町谷地の旧家や酒田の本間家、周辺に伝わる雛人形はこの時のもの。各地では春、享保雛などを陳列して雛祭りを行い、人気を呼んでいる。また谷地どんがまつりの囃子が、京祇園祭の流れを汲むのも、こうした交易によるものであろう。
質の高い最上紅花は上方で人気を呼び、紅花商人は大きな富を手にした。特別に利益を上げたものは「紅花大尽」と呼ばれ、尾花沢の鈴木清風がその代表格だ。彼は商人としては珍しく俳句をたしなみ、芭蕉の「おくの細道」にも登場している。




 

山居倉庫

旧鐙屋と内部
 
 

江戸時代、西の堺、東の酒田と言われるほど繁栄した湊町、酒田。当時は酒田36人衆と呼ばれる商人たちが町の世話役として活躍した。廻船問屋の鐙屋もその一人で、現在の「旧鐙屋」を訪ねると、豪商の暮らしぶりが伺える。石置杉皮葺屋根の典型的な町家造りで、当時の生活用品が展示されている。
また酒田は庄内米の集積地としても賑わった。山居倉庫は明治26年(1893)、酒田米穀取引所付属倉庫として建てられた。土蔵造りの二重屋根、背後を囲むケヤキ並木は日よけと風よけの役目を果たし、自然を利用した低温管理がなされた。
昭和14年(1939)に米穀取引所は廃止されたが、山居倉庫は現在も農業倉庫として活躍。一部は庄内米歴史資料館や酒田市観光物産館「酒田夢の倶楽」として開放されている。