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「越後の虎」として恐れられた戦国の英雄・上杉謙信が急死したのは、1578年3月。すぐさま後継者争いが起こり、この戦いで勝利を収めたのが上杉景勝で、その景勝のもとで治世を担う1人として活躍したのが樋口与六兼続(直江兼続)です。
1560年、兼続は上田庄坂戸城(新潟県魚沼市)の城主長尾政景の家臣樋口惣右衛門兼豊の長男として生誕。幼い頃から聡明で、その非凡な才能は5歳のときに4歳上の景勝の近習に抜擢されるほどでした。以来、2人で武芸と学問を学び、特に兼続は文学を好み、漢詩などで才能を発揮。将来の名宰相としての資質を、この時期に身に付けたといわれています。
その後、兼続は直江家の未亡人・お船と結婚。直江家を継ぎ、直江兼続として与板戸城主となり、同時に上杉家の参謀に。景勝の全幅の信頼のもと、22歳で上杉家の軍事と政治面にわたる執政者となりました。
織田信長の死後、景勝は兼続とともに豊臣秀吉と面会し、重臣として豊臣政権の傘下へ。兼続も、検地や佐渡平定などの重要な事業を担当。その優れた活躍ぶりに対し、秀吉も「天下の政治を安心して預けられる数少ない人物」と注目していたといわれています。


1598年から上杉氏領となり、景勝の重臣である兼続が城主となった米沢城址。関ヶ原の戦いで会津が没収されてからは、上杉氏の居城となりました。

上杉鷹山や景勝などとともに兼続も祭神されている松岬神社。米沢城址内にあります。

上杉景勝が越後から移封し、城主となった会津若松市の鶴ヶ城。関ヶ原後は、減封され米沢へ。

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1598年1月、景勝は越後92万石から会津120万石に移封され、5大老の1人として活躍。兼続も米沢の城主となりますが、越後時代と同様に会津領の執政も任せられることになりました。
同じ年の3月、秀吉が死去。兼続は天下の新たな動乱を予見し、会津の領国経営に力を入れ始めます。道路の整備や橋梁の修理など、120万石にふさわしい城下づくりを進めるとともに、多くの浪人を召し抱えて動乱に対する備えも怠りませんでした。


1872年、上杉謙信を祀り創建された上杉神社。宝物殿には謙信・鷹山・兼続の遺品を中心に1000点以上収蔵し、重要文化財も132点含まれています。

※米沢上杉まつり
上杉神社と松岬神社の例大祭。メインとなる上杉行列と迫力ある川中島の合戦は注目。
※やじろべい達磨に託されたお膳の意味
城下町米沢の織元の土蔵。蔵の中のものは次の代までの“預かり物”。
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1600年、天下を狙っていた徳川家康は、会津に帰って領国経営に専念していた景勝の動きを抗戦の準備と警戒。景勝の上洛を求める書状が兼続宛に届きました。これに対する返事は、家康を相手に微塵の妥協も見せない堂々たる回答で、「直江状」と呼ばれて今も語り継がれています。
激怒した家康は、会津征伐のために出兵。兼続の盟友である石田三成はこの動きを見て、家康の伏見城を攻撃。これが天下分け目の決戦、関ヶ原の戦いへと続いていきます。
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関ヶ原で敗者の側となった上杉家は、会津120万石が没収されるとともに、米沢や伊達郡などを合わせて30万石に減封。兼続は、上杉家の執政者として全責任を負い、厳しい立場を強いられますが、国の繁栄を目指して最後まで力を尽くしました。
30万石の領土で110万石の武士を食べさせ、領民の暮らしを成り立たせていくため、まずは城下町の商工業を振興。農村部においても、漆・桑・紅花・青芋の4品目を特産品として生産を奨励しました。さらには領内各地を見て回り、農産物の改良をはじめ、治水、新田開発、植林などにも積極的に取り組んだといわれています。

兼続が植え始めたとされるウコギの垣根。春の新芽は食用に使われ、現在も米沢を代表する家庭の味として知られています。

兼続夫妻の墓所である春日山林泉寺。

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家康から届いた書状は、返事次第では上杉家の興亡にかかわるという厳しい内容で、これに対して兼続が釈明したものが「直江状」です。内容は、上洛できないことを詫びた上で、家康の疑いについても理に照らして1つ1つ正し、謀反の告げ口を信じる家康を責め、「攻めてくるのなら受けて立つ」という言葉で結んでいます。
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兼続が使用していたと伝えられる甲冑の前立てには、金色の金属板でできた大きな「愛」の1文字が掲げられています。この理由については、戦国時代には神仏の像や神号・仏号を前立てに用いた武将が多くいたことから、「愛染明王」・「愛宕権現」への信仰心という説や、兼続の「愛民」の精神からきているという説などがあります。
