「ライカじゃ望遠レンズを付けられないし*、ボディもシルバーでピカピカ光るから戦場じゃ目立って危ない。“こっちのほうが安全だぞ”って、発売されたばかりのブラックボディのニコンFを持たせて、換わりにライカM3を預かったんです」。そう語るのは、現在も青森市内で写真店フォト・フジマキを営むカメラマンの藤巻健二さんだ。
片手で幼子の手を握り、片腕には赤ん坊を抱き抱えて必死に川を渡る母親の姿―。
壮絶であり悲惨だったベトナム戦争の一場面を捉えた『安全への逃避』でハーグ世界報道写真展グランプリ、そしてピュリッツァー賞など報道カメラマンにとって栄誉となる数々の賞を受賞した“戦場カメラマン”沢田教一。彼の生まれ故郷の青森で同級生が営むカメラ店の店内の一角には、今も愛機だったうちの1台のライカM3がヘルメットなどの遺品とともに飾られている。その店主であり同級生が藤巻さんだ。
「同級生の間では通称“沢教(さわきょう)”って呼ばれていたんですが、ある時ふらっとやって来て、訊けば“ベトナムに行く”って言うから驚きました。しかも、展覧会に出品するような写真を撮るのが目的だと。もともと沢教は口数が少ないし、何を考えているのか推し量れない大人しい性格。でも神経が図太くて、一度決めると綿密にそれを実行していくタイプだったので、こっちも“危険だぞ”なんて当たり前のことを言いながらカメラを1台交換したんです」。
幼い頃から友人だった二人の間柄は、中学、高校と成長する中で“写真”を軸に深められていく。沢田が最終的に“U.P.I”の報道カメラマンに落ち着くことになったきっかけも、当初は藤巻さんがいた小島写真店の三沢支店を沢田に紹介したことだったと言う。
「とにかく不思議というか、柴田錬三郎の小説に出てくる円月殺法の“眠狂四郎”みたいな独特の雰囲気を持っていましたね、沢教は」。
※編集部注)*実際には当時、中規模望遠レンズは存在していました。 |