藤巻さんが沢田教一と学んだ当時の青森高校には強烈な個性派もいた。
「あの寺山修司も同級生だったんですが、常に何かをやらかして校内を賑わわせていた“寺修”と違って、沢教は寡黙で決して笑わないというのが仲間内での共通認識でした。ただし、その反面おしゃれで几帳面でキレイ好き。毎日ワイシャツにアイロンかけてくるのは沢教くらいだったから、当時の写真を見ると彼だけは襟元がピシッとしてますよ(笑)」。
常に冷静沈着で綿密な計画に基づいて行動する。しかも几帳面。これは戦場カメラマンとして“世界のサワダ”となった後にも変わらなかった周囲からの評価だ。逆に言えば、その素養が自分の命を守るためには必要だったのである。だからこそ、1970年(昭和45年)10月28日、カンボジアの国道2号線上で銃弾に倒れ、わずか34年の生涯を閉じた時には、彼を知る報道関係者は一様に“まさかあの慎重なサワダが”と絶句したという。戦地の現状を熟知する人間ならためらう夕刻出発の取材行きが、その切ない運命の引金を引いたからだ。案の定、記者仲間に強引に誘われて不承不承で同行したゆえの結果だと伝えられている。
さて、その沢田教一が生き続けた戦場という世界と、生まれ育った青森という場所には、果たしてどのような距離感があったのだろうか。
「ずっと沢教を知っていても当然、彼が戦場に行ってピュリッツァー賞を受賞するなんて思いもしませんでした。それ以前に、当時は賞の権威もよくわからなかった。だから受賞後も、青森まではその偉業の大きさは正確に伝わってこなかったし“世界のサワダ”と言われてもピンと来なかった人がほとんどでした。高校卒業以来、沢教は一度も同窓会に参加しなかったから、本当にどこか遠い世界で、ある期間のうちに起きた出来事という印象がありました」。 |