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仕事道具に求めたこと。

ズマロン35mmのF3.5のレンズが付けられたライカM3。戦場では瞬時のレンズ交換が不可能。シャッターチャンスを逃さないためには、常時別々のレンズを付けたライカを数台、首に下げて動くことになった。

沢田夫人のサタさん。サタさんは現在もお元気で、故郷の弘前で自宅を開放し1日1組限定の完全予約制レストラン『グルメさわだ』を営み、手料理を振る舞っている。

戦場カメラマン・沢田教一の残像/青森・青森市

とうほく唯物論【4月号】

沢田教一は1936年(昭和11年)に青森市寺町(現・橋本)に5人兄弟の長男として生まれた。父親が地元の郵便局で集金担当の外交員をしていたことから、住まいは郵便局員用の長屋だった。青森高校卒業後は早稲田大学受験に二度失敗。その後、藤巻さんの紹介で写真店に就職し、米軍三沢基地内の店舗に異動となり、そこで生涯の伴侶となる田沢サタさんと出会う。サタさんは青森県立弘前女学校を卒業後、学んだ英語を磨こうと米兵やその家庭と会話ができる、生きた英語に触れる場を求める中で写真店に就職。その経緯もあり、社交的で英会話もうまく、店では米兵やその家族たちからも“看板娘”として親しまれていた。

「サタさんは自分のローライフレックスで写真も撮っていたんです。沢教にしてみれば境遇も性格もまったく正反対の女性であり、カメラに関しても先輩、英会話では先生のような存在だったわけですから、眩しいくらいの憧れを感じたんですね。そこに決して暮らし向きが楽ではない家の長男という事情なども加わっていき、いつしか誰からも認められる写真を撮り、より多くの報酬を得るという純粋な目標に対して、彼なりに綿密な計画が練られていったということなのでしょう」。
11歳年上のサタさんとの結婚に、親の強い反対を受けていた沢田は自分の籍を実家から外し、ついにサタさんと入籍。この際、三沢基地内のドミトリーに住んでいたサタさん宛に“セキヲイレタ マイオクサン キョーイチ”と電報を打った。沢田が20歳、サタさんが31歳の冬だった。

さて、沢田の愛機だったライカM3は、カメラの歴史の中に揺るぎない一時代を築いた名機であり、往年の愛好家はもちろん、現在でも収集家やファンの間では“持つこと自体が意味を持つ”フラッグシップ機として根強い人気を誇っている。
「当時、いちばん頑丈でしかも精密に撮れる小型カメラだったんですよ。沢教はよく“日本のカメラは弱い”って言ってましたから、彼にとっては命を懸けて作品を撮る戦場での過酷な瞬間の連続に耐えられるかどうか、それだけが基準だったのだと思います」。
戦場カメラマン・沢田教一が、自分の目的を達成するために選んだ仕事道具のライカM3。その1台が、今も故郷の青森に遺されている。

■取材協力

フォトフジマキ
藤巻健二氏

沢田サタ氏

■参考文献

『泥まみれの死 ~沢田教一ベトナム写真集~』(沢田サタ著/講談社)
『ライカでグッドバイ』(青木冨貴子著/文藝春秋)

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