大湯環状列石は、野中堂環状列石、万座環状列石の2つの環状列石によって構成される「集団墓」であるとともに、隣接する掘立柱建物や周囲から出土した祭祀の遺物などから、葬送儀礼や自然に対する畏敬の念を表す儀式を行った「祭祀施設」であったと考えられている。

大湯ストーンサークル館。雪国に古くから伝わる雁木(がんぎ)をイメージとした建物。ここでは縄文土器を作るなどの体験学習もできます。

「この史跡は、彼らが200年以上かけて造りあげたことがわかっています。ストーンサークル近隣には16棟の竪穴住居がみつかりました。この建物は、儀式を司る人の家、ここを管理する人の家であることもわかりました。
さらに周辺からは人型や動物型、きのこ型の土偶が大量に出土。さまざまな祭祀に伴う遺物、土器も出土しています」。 広範囲の地域には同時代頃の集落と思われる遺跡も数多く、北秋田市にある伊勢堂岱遺跡の四つの環状列石も大湯環状列石と同時代のものとわかっていると藤井さんはいいます。
「調査研究が進みそういったさまざまなことが究明されてきました。ここは縄文の人びとが創りあげた祈りの場であり、祭りの場でした。ただ石がごろごろとあるようにしか見えない環状列石の一つ一つの配石を紐解いていく。すると、石の組み方は確かに意味づけされていることがわかります。石組された遺構の下からは、土坑墓が確認され、ストーンサークルが墓の集合体であることも調査で判明しました」。
藤井さんは、組石が一個の場合は個人の墓、集まっているものは家単位や家族の墓。男性の墓は石を立てて置き、女性のものは横に寝かせる。そして赤ん坊や子どもが死んだ場合もそれと分かるように石が組まれているといいます。
一つの環状列石を形づくる石の総数は2000~3000個。石は緑色をした石英閃緑 石で、遺跡から4~7キロメートル離れて流れる安久川から運ばれたものです。多勢の人が力をあわせて運び込こんだ特別な石は、所定の場所に意味を持って配列されていったのです。

縄文の集落は、竪穴住居が中央の広場を囲んで輪をつくるかたちに展開しています。複数の家族が寄り集まって自然に円形になったものではなく、宇宙を円形とみなす宇宙観が村の形をつくったとも考えられています。
竪穴住居は、他の家族が交り入ることができない自分たち家族だけの閉鎖的な空間。家族と先祖をより強く結びつけ、きずなを深める場所でもありました。
現実の生活と同居している死者、死後と現実の世界との境界は定かではなく、ときには死者がこの世に簡単に甦ると考えられていました。
そして、誕生、成人式、結婚、埋葬と現代人と同じように人生の儀礼があったことは、遺構、遺物からも計り知ることができます。
こういった儀式を大集落で営んでいたのは縄文時代中期まででした。大湯環状列石がつくられた頃の後期になると、気候の寒冷化による食料の減少、環境衛生面や社会面での破綻が起こり、大集落は分散化してしまいます。
分散化して小さくなった集落は祭祀というかたちで一堂に集まり、集団としてのつながりを維持したのです。

大湯環状列石の周囲には、縄文時代早期から平安時代までの遺構が残っています。平安の人びとはストーンサークルの存在を知りながら、遺跡にはいっさい手を出さなかったのです。神聖な場所として理解した彼らには、縄文の人びとの世界観が伝わっていたのでしょう。
二つそれぞれのストーンサークルの中心部にある立石を結ぶラインは、夏至の日の太陽の動きと一致します。4点が一直線で結ばれたその日に縄文の人びとは、この場所を決め、日時計状組石を配列したのでした。
「縄文人は、米粒一つずつ位置を変える太陽の動きをみていたのですね」。藤井さんから話を聞いたその日、万座環状列石の日時計の背にぶるぶると震えながら落ちていった太陽は、4000年前に縄文の人びとが見た光景と重なっていました。