三内丸山遺跡。遺跡の象徴として復元されたのが6本柱の大型掘立柱建物。直径1mのクリの木の柱が4.2m間隔で並び、若干中心側に傾いた「内転び」技法が使われている。35cm単位の縄文尺をもとに大型の建築物を作る高度な技術がすでにあったことを示す。何のために建てられたのかはまだ謎が残るが、祭祀の場または物見櫓ではないかと考えられている。


大型板状土偶。顔・胸・臍が表現された十字型で高さは約30cm。1600点余りが出土、他遺跡に比べて圧倒的な数だ。頭部と胴部が別の場所で発見されることも多く、祭りの場で、命の再生を願って人為的に壊されたのではないかと考えられる。

ボランティアガイド。三内丸山応援隊のメンバーが遺跡内を1時間ほどかけてガイドしてくれる。

縄文時代は、はるか12000年以上前、日本列島のほぼ全域で土器の製作や矢の使用とともに始まりました。その後、竪穴住居が確立して集落を作る定住社会となって行きます。縄文中期から特に東北地方に大規模な集落が形成され、住居地、祭祀場、墓地、ゴミ捨て場などを区画して住む高度な共同体が生まれたのです。遺跡発掘が進むにつれ、想像を超える高い技術や芸術性、精神性が明らかになってきました。
土器は、実用的な生活道具でありながら、優雅な形、華やかな装飾で素晴しい造形作品となっています。土偶は人を模し、乳房や臀部を強調した形が特徴で、豊穣の象徴である地母神と解釈されています。東北に偏って出土しており、世界にも類例のないものです。 環状列石は、大地に造形された聖域の結界であり、縄文人の精神世界を表したものと考えられています。装飾品に使われた翡翠や琥珀などの存在は、北海道から中部地方まで広く交易があったことを示しています。
東北の森と海が食の恵みを与え、縄文人は精神性豊かな社会と文化を築いたのです。

三内丸山遺跡は、約5500年前から1500年にわたって営まれた38ヘクタールにも及ぶ大規模な集落です。当時は現在より平均気温が2~3度高い温暖な気候で落葉広葉樹の森が広がっており、集落の北側を流れる沖館川は近くの陸奥湾に注いでいます。食物は、海で採れる鰤や鯖などの魚、森で採れる栗、胡桃、芋類、山菜など。また豆類やエゴマなどを栽培しており、豊富な食料が安定した定住生活を支えました。
集落は、密集した小型の竪穴住居群、大型竪穴住居群、大型の掘立柱建物、高床倉庫群、祭りの場、ゴミ捨て場など機能別に区割りされていて、特に墓は大人の墓地と子供の墓地が別れ、埋葬法も違っています。
出土品も興味深いものばかり。膨大な量の円筒土器の文様は時代によって少しずつ変化していきます。土偶は板状で円筒土器文化圏特有のもの。黒漆に赤漆を重ねた高度な技術で作られた櫛や皿、イグサ科の植物の茎を編んで作られた縄文ポシェット、翡翠のペンダントや耳飾りなどは、技術的にも美的にも優れた工芸品です。また、黒曜石の鏃、翡翠の大珠、琥珀なども出土、舟を利用して活発に交易をしていたようです。

こうした遺物や遺構をじっくり見るには展示室へ。また遺跡入り口にある縄文時遊館ではビデオ上映、勾玉やミニ土偶作りの体験などが楽しめますし、ボランティアガイドの遺跡案内ツアーも一時間ごとに出発しています。三内丸山遺跡を歩いて、縄文の村と生活を追体験してみましょう。

黒曜石の鏃。北海道十勝、秋田男鹿、新潟県佐渡、長野県霧ヶ峰などから産したものが出土、海を渡って交易を行っていたと考えられる。


縄文ポシェット。イグサ科の草の茎を網代網みで袋に作ったもので完全な形で出土したのは日本でこれのみ。幅約10cm、高さ約12cmの大きさで中に胡桃が入っていた。



翡翠の大珠と琥珀(茶色のもの)。翡翠は新潟県糸魚川周辺から、琥珀は岩手県久慈から運ばれてきたもの。装身具、また埋葬時の副葬品として使用されたのではないかと考えられる。翡翠は原石、加工途中品も見つかっており、硬い石に穴を開け、磨く高度な知識と熟練した技術を持っていたことが分かる。