


「平泉は初代清衡が非戦と平和を誓って国づくりを始め、二代基衡、三代秀衡がその遺志を継いで造り上げた都市です」と話すのは中尊寺仏教文化研究所長の佐々木邦世さん。前九年合戦、後三年合戦で父、妻子を殺害される悲劇を味わった清衡は1095年、江刺から平泉に居を移します。そして仏教の教えを基に平和な理想社会の建設を決意しました。「中尊寺の造営は、敵も味方も含め全ての犠牲者を供養するためです。自分の中にある恨みつらみを無くし、慈悲の心に至る信仰の道ですね。あの世ではなく、今生きているこの世に浄土を造ることを使命としたのです」。20年の歳月をかけて二階大堂、金色堂など多くの堂塔を造り、1128年に清衡は没しました。
二代基衡は父の志を引き継ぎ、平泉の南に浄土庭園を配した毛越寺を建立します。周辺には幅30メートルの大路を建設、方形に地割を整えて都市の基礎を造りました。三代秀衡は毛越寺を完成した後、無量光院を建立します。宇治の平等院鳳凰堂を模し、一回り大きい造りでした。さらに政庁として平泉館、居館の加羅御所を整備、要所に大寺院を配した都市平泉が完成したのです。

仏教文化を体現した寺院は絢爛を極めました。中尊寺の金色堂はまばゆいほどの金や螺鈿で飾られ、一切経と呼ばれる経文は金銀を用いて文字が書かれました。「中国から一切経5300巻を輸入し、それを二部ずつ写経しました。紙を漉いて紺色に染め、金と銀で文字を書き、校正しては書き直すのです。厚い信仰心と財力があったから、都人ができなかったことを平泉の藤原氏が成し遂げたのです」と佐々木さん。
毛越寺の金堂円隆寺は金銀を散りばめた壮麗なものであり、都の仏師雲慶に制作を頼んだ薬師如来像は、あまりに素晴しい出来栄えのため鳥羽法皇の目にとまり、一時都からの持ち出しを禁止されたといいます。無量光院は本堂の背後に金鶏山を望み、夕日が沈む時、西方浄土からの光に包まれる極楽を現出しました。
この繁栄の背景には現在の岩手、山形、宮城各県の広い範囲で豊富に産出した砂金の存在がありました。金は交易にも使われ、柳之御所遺跡からは、都でも珍しい中国の白磁や常滑の陶器などが出土しています。遠く南洋からの文物も渡来、平泉の文化を発展させる力となりました。




