




260余りの大小さまざまな島からなる松島。風光明媚な場所として、安芸の宮島、天橋立とともに日本三景の一つにあげられています。この「日本三景」という発想は、江戸幕府の儒学者・林羅山の三男で、全国を行脚した林春斎が『日本国事跡考』(一六四三年)の中で「三処奇観」と記したのが始まりといわれ、その後、名所として広く知れ渡って現在の賑わいにつながっていきます。 では、江戸時代以前の松島はどんな場所だったのでしょうか。風景的には、今も昔もそれほど変わっていないように思われます。観光地となる前の古代や中世の松島について、仙台市博物館の濱田前館長にうかがいました。

万葉の昔から歌枕に使われた松島ですが、世の中に知られるようになったのは、平安時代の末といわれます。そのころ、数ある島の中でも別格だったのが雄島です。そこに見仏という法華経の行者がいました。
「古代以来、松島には中国から渡来してきた僧侶や鎌倉で教えていた名僧がやって来たり、勉強しに来たりしています。見仏がその代表ですが、そうした人がわざわざ訪ねて来るというのは、松島は東方浄土の聖なる場所だったということです」
雄島が、この世とあの世の境とされ、東方浄土を示すものとして、板碑(中世の供養塔のひとつ)の向きがあげられます。雄島の発掘調査の結果、板碑のすべてが西に表面を向けていたことがわかりました。つまり、東方に向かって手をあわせることになり、このことが東方浄土を物語っています。
雄島に一二年間住み、ひたすら法華
経を唱えた見仏は、霊力を獲得したと言われ、その名声は京や鎌倉にも及びました。瑞巌寺の宝物館に収蔵されている水晶の仏舎利塔は、尼将軍として知られる北条政子が、亡夫の浄土往生を願って見仏に届けたものと伝えられています。

江戸時代に入り、松島が伊達藩の領地になると、政宗は五大堂の再建や瑞巌寺の造営などを進めることになります。
「五大堂は、坂上田村麻呂が建てたものをそのまま再建したのではありません。上杉勢と伊達勢が戦った東北の関ヶ原といわれる白石城の攻防戦の前に、政宗は『勝利したら建て直す』と五大堂に願を懸けました。それで見事に勝ちました。そうした意味もあって建てられたのです」
瑞巌寺の前身である円福寺は、鎌倉、室町と栄えたものの、戦国時代に寺勢は衰えました。それを政宗が五年の歳月をかけて、桃山様式の荘厳な大伽藍につくりあげることになります。
「政宗や伊達家の菩提寺として瑞巌寺は捉らえられますが、その前後の記録などを読み返してみると、決して個人の寺だったわけではなく、戦国時代に政宗周辺や先代の伊達家の周辺で亡くなっていった人たちの菩提後生を弔うために建てられています。当時、政宗は三四、五歳であり、自分の菩提寺という発想はないはずで、多くの人を弔うため聖地である松島に建てたと考えられます」
松島の宗教的な背景があって、政宗は最もふさわしい場所に寺を造営したわけです。
